えんとつならぬ……
「のっぽの東京スカイツリーロール」という。
全長340ミリだそうな。
えんとつよりも、ふかふかかも。
美味なり!
高峰秀子の潔さ、尾崎豊への後悔、そしてサリンジャーが死んだ―虚と実が綾なす人生の不思議。独り在ることの惑いと誇り。生きる者と死にゆく者へ贈る励ましと別れの言葉。圧倒的な清潔感と独自の美意識に溢れた、13編を収録。(内容紹介より)
『ポーカー・フェース』(沢木耕太郎著 新潮社)
沢木耕太郎作品を久々に読む。
一番最近読んだのが『テロルの決算』。山口二矢(おとや)が社会党の浅沼稲次郎委員長を刺殺した有名な事件のノンフィクション。
それから、文藝春秋から出ている「沢木耕太郎ノンフィクション」(濃緑の表紙のやつ)シリーズのうちの何冊かも読んだ。一番著名な作品『深夜特急』は、もしかすると未読である。
本書はエッセイ集である。確か以前の作品『バーボン・ストリート』は読んだと思うのだが、もう相当前の話なので内容はまったく覚えていない。
だが、本書を読み始めた途端、「ああ、沢木耕太郎だ」と思ったのだから、その文章の質感は、記憶の襞(ひだ)にしっかりと刻みこまれていたようである。
このひとの文章を読んですぐに思い浮かぶのが「手練(てだれ)」という言葉だ。
贅肉のついていない、すっきりとした文章はじつにうまい。品がある。
そこには“ノンフィクション作家”という仕事に対する姿勢が反映されているように思う。
真摯に、誠実に、丹念に。
虚飾を排し、外堀を埋めるようにして真実を浮かびあがらせる、そんな仕事だ。
さらに、どこを切り取って、どうみせるかもだ。
本書には、実際の芸能人やら作家やらが登場する。
特殊な世界で生きるひとたちの生き様には、ぼくらには想像もつかない“変わったこと”がごく普通に起こりうる。
同じことを、あるひとが書けば創作っぽく感じられてしまうだろう。あるいはウソと。
だが、ノンフィクション作家が書けば、それは無条件で事実なのだと信じてしまう。
そして、「事実は小説より奇なり」であると、そのおもしろさが倍増するのだ。
ところで、本書には高峰秀子というかつての大女優が登場する。
ぼくが中学にあがる頃には、すでに女優を引退されているので、恥ずかしながらまったく記憶にはない。
だが、ぼくは石坂浩二が金田一耕助を演じた「犬神家の一族」で犯人役を演じた高峰三枝子さんのことを、高峰秀子さんだとずっと思っていた。ありゃりゃ
なんだかどうでもいい、まぬけな話ですな。
東日本大震災で露呈した政府、関係機関の隠蔽体質。そんな社会にあって、最前線のジャーナリストたちは、「言論の自由」、そして「知る権利」を守るべく、日々、闘っている。グリコ・森永事件や三島由紀夫の幻のクーデター計画、さらには皇室報道、芸能・スポーツに至るまで、歴史の闇に封印された巨大な謎の真相がいま、明かされる。(内容紹介より)
『真相開封』(「文藝春秋」編集部編 文藝春秋)
副題が、「昭和・平成アンタッチャブル事件史」。グリコ・森永事件、皇室のお世継ぎ問題、原発の安全性、大相撲の八百長問題、芸能人のスキャンダルなどなど、社会を揺るがせた34の事件・事故の舞台裏を、事件記者たちが渾身の取材で記事にまとめている。
それにしても、いろいろな事件があったのだが、“記憶は忘却の彼方”、自分に直接関係のないと思われることはどんどん忘れてしまうなぁとあらためて思う。それが脳の機能だからしょうがないのだけれど。
最近のネタで気になったのが、「東日本大震災は予知されていた」というもの。
「岩手・宮城・福島県沖の太平洋で、2005±5年のうちにマグニチュード8±の地震が起きると推定される」との発表が、2007年6月に沖縄で開催された学術会議の席上で、琉球大学の元名誉教授・木村政昭氏よりあったというのだ。
この記事によると、木村氏はこれまでにも多くの地震発生や火山噴火などを予知しているという。
一方、日本の地震研究の最高権威といってもいい文科省の研究グループによれば、今回の震源地で大地震が起きる可能性はほとんどなく、日本で一番安全な地域だといっていたそうである。研究費が仕分けされても文句がいえまい。
こうした状況にあっても、木村氏の地震予知理論は、学会の識者たちから無視されているらしい。
記者はそのことに憤っている。
ちょっと気になって、木村氏のサイトをみてみたら、ここ何年かのうちに富士山が噴火する可能性がかなり高いらしい。ゲッ!
富士山は日本が世界に誇る美しい山で、日本人の心象風景のひとつだ。
予知が外れることを祈るしかない。
このところちょっと気ぜわしくて、読書感想まで手がまわらず。でも本自体は読んでいたので、この間に読んだ本の感想を軽くまとめてみます――。
『ラットレース』
死んだインコの下からゆっくりと生えてきたのは、半透明のオッサン!? 女子高生・片里名蘭はオッサンに取り憑かれてしまった! 彼女を救うべく、オッサンの死の謎を追いはじめる後輩の中島。決して口に出してはならない、ある想いを抱いて―。(方波見大志著 ポプラ社)
本著者作品初読。テーマは魂の救済。本書の場合、抽象的な意味合いでの「魂」ではなく、具象としての「魂」のこと。つまり「霊魂」というか、幽体離脱した“何か”を救済するということ。
女子高生の蘭にオッサンの霊が憑いてしまう。その霊は憑依した先、つまり蘭の願いを3つ叶えるとめでたく昇天できるらしい。で、願いのひとつが仲違いしてしまったかつての友人(女の子)と仲直りすること。
その原因はイジメで、ほかの男子学生に対して友人が行なったものなのだが、その結果、男子学生は意識をなくして眠りつづけている。この男子学生の霊(この場合は生霊か!?)が、またほかの男子学生に憑依しており、さて、オッサンは無事に昇天できるのか、男子学生の霊魂はもとの体に戻ることができるのか……というお話。それなりにおもしろく読めたのだが、ちょっとリアリティに欠けるきらいがあるというか、「頭のなかでつくったお話です」という感じが抜けておらず残念な印象。
『at Home(アット・ホーム)』
そこは人がほんとうに帰るべき場所なのだろうか? ふぞろいで歪つな4つの家族とそこに生きる人々。涙と冷酷と波乱を存分にたたえたエンタテインメント小説。(本多孝好著 角川書店)
ちょっとネジれた4つの家族を主人公にした短編集。本著者作品も初読だが、なかなかハートウォーミングな作品ばかりでよかったなあ。基本的にこういうお話がぼくは好きです(どんなお話じゃ!)。
本書を読んで、あらためて妻のことを思ったり(愛してます)、その他のこと(内緒!)をいろいろと考えたりしてしまいました。近いうちにまた別の作品を読んでみよう。
『凡人として生きるということ』
世の中は95%の凡人と5%の支配層で構成されている。が、5%のために世の中はあるわけではない。平凡な人々の日々の営みが社会であり経済なのだ。しかし、その社会には支配層が流す「若さこそ価値がある」「友情は無欲なものだ」といったさまざまな“嘘”が“常識”としてまかり通っている。嘘を見抜けるかどうかで僕たちは自由な凡人にも不自由な凡人にもなる。自由な凡人人生が最も幸福で刺激的だと知る、押井哲学の真髄。(押井守著 幻冬舎新書)
映画監督が縦横無尽に人生論を語ったという内容。押井作品(映画)をちゃんと観た記憶はないのだが、本書を読むかぎり、なかなかの変わり者のようである。というより、変わり者じゃない監督を捜すほうが難しいにちがいない(偏見?)。
オヤジ論(オヤジになることは愉しい)、自由論(不自由は愉しい)、勝敗論(「勝負」は諦めたときに負けが決まる)、セックスと文明論(性欲が強い人は子育てがうまい)、コミュニケーション論(引きこもってもいいじゃないか)、オタク論(アキハバラが経済を動かす)、格差論(いい加減に生きよう)というテーマでそれぞれ独自の理論を展開している。納得できるところもあるし、納得できないところも正直あるが、いずれにせよ、「自我を持て」という主張であり、若者たちへの強いメッセージであることは確かだ。
「僕には友だちは一人もいないが仲間は大勢いる」というところは結構気に入った。友だちもいいけど、やっぱ仕事仲間でしょ。それにはぼくも賛成!
『レイジ』
音楽の才能は普通だが、世渡り上手なワタル。才能に恵まれるも、孤独に苦しみ続ける礼二。少年から大人へ―男たちのロック魂が交差する音楽青春エンターテインメント。(誉田哲也著 文藝春秋)
ちょっとまえに読んだ『世界でいちばん長い写真』の著者作品。うーん、こいつはなかなか熱いぜ。
中学時代からのバンド仲間であるワタルと礼二は、なんとなく目指す音楽性のちがいから離れてしまうのだが、ずっと意識しあってる相手同士。しかも、ふたりのあいだには松下梨央というかわいい女の子がいて、これがまた火種というかなんというか。
そんな相容れぬ関係のまま、ふたりはともに三十も半ばとなり、人生に倦んだ日々を過ごしていたところ、ひょんなことからかつての礼二の歌が脚光を浴びて、ついにふたりは手を携えて陽のあたる場所へ……みたいなお話。
『青春デンデケデケデケ』もそうだったけど、本書もぼくらの青春時代に流行った歌やバンドがいくつもでてきて(ぼくは洋楽のほうは詳しくないのだけれど)、やたらと懐かしく感じるし、実際にバンドをやってたひとが読んだら、“焼けぼっくいに火がつく”的に、ハートがフィーバーしちゃうんじゃないかなと思う。ぼくも歌は好きだから、バンドやってみたかったなあ〜なんて思っちゃいました。
「先生はえらい」のです。たとえ何ひとつ教えてくれなくても。「えらい」と思いさえすれば学びの道はひらかれる。だれもが幸福になれる、常識やぶりの教育論。(内容紹介より)
『先生はえらい』(内田樹著 ちくまプリマー新書)
福岡センセの『せいめいのはなし』に登場した内田樹(たつる)さんの本。同書のなかでセンセがこの本のことをほめていたので、読んでおこうと思った次第。本著者初読。なるほど、おもしろい。
ここでいう「先生」とは、人生の師と呼ぶことができるひとのことである。誰にとっても「先生」と呼べるひとである必要はない。あくまでも、そのひとにとってだけの先生である。
いまぼくが編集を手がけている教育書に、小学生高学年になったら、親はこういう「師」を見つけてあげることが大切だというアドバイスが載っている。
親のいうことにとにかく反抗したくなるこの時期、とはいえ子どもはその後の人生を生きるうえで指針ともなる「言葉」や「思想」を切実に欲してもいて、自分の進むべき方向性を示してくれる「師(先生)」をみつけることができたなら、そのひとに一もニもなく惹かれるのである。
親のいうことには耳を貸さないが――ちゃんと話は聞いてはいます。でも、素直に聞き入れられないのです――この師の言葉には素直に従うのがこの時期の子どもである。
本来はそうした存在に学校の教師がなってくれると親としては安心できるのだろうが、残念ながらそういう教師はあまりいないようだ。
サッカークラブのコーチだったり、塾の講師だったり、そういうひとたちのほうが、子どもたちにとっては「師」と呼ぶに相応しいらしい。
学校の先生は、きっとやらなくてはいけないことが多すぎて余裕がないのだろう(と好意的に考えておく)。日々の業務に追われて汲々としている大人の姿に、羨望をみいだす子どもなんていないだろうから。それはガッコのセンセに限らず、世の親たちにもいえることにちがいない。
まあ、ひとにはできることとできないことがあるし、役割というものもある。
できないことはできるひとにお願いしてしまえばいい。
そのひとを通じて、自分の言葉を子どもに伝えることだって有効な手立てのひとつなのだ。
とまあ、外野からの好き勝手な意見でした。
いまの例は小学校高学年だから、いずれにせよ、まだまだ親の手助けが必要だ。そう簡単に人生の師と呼べるようなひとと出会えるわけじゃないから、そういう機会をつくってあげるのが親の仕事だというこである。
一方、本書は中高生向けに書かれたものだから、それよりはもっと自発的な先生との出会いを求めるべきだと説かれている。
それから、本書は“思索の大切さ”について教えてくれる。
学校の授業では教えられることのない、内省的な思考の旅のおもしろさだ。
日本人の多くが、確固たるアイデンティティについて語る言葉を持っていないように思える。かくいうぼくも同じだ。
それが国としての“元気のなさ”になんとなく直結しているような気がしてならない。
その原因のひとつが、思索の大切さ、あるいはおもしろさを子どもたちに教えてこなかったことではないかと思う。
知識や情報はあとからいくらでも集めることができる。いまはクリックひとつで簡単に収集が可能な時代だ。
それらをどう再構成し、組み上げて、自分の言葉なり思想なりに変換できるかが大切なのだ。
そういうことが普通にできるようになるための基礎訓練が思索なのだと思う。その時間や機会をもっと増やすべきだろう。それが理想の教育ってもんにちがいない……なんて、ちょっとエラそうだったかな。